2012年10月20日(土)
11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち
先日交通事故で亡くなった若松孝二監督、、、l
僕は一本も映画観たことがなかったんですけど、
存在は知っていて、、ちょっと 偶然系で
あ!とおもうこともあり、、この話はまた先で。
下高井戸シネマで
若松監督が撮られた最新映画 <11.25自決の日
三島由紀夫と若者たち>が本来は若松監督のトークショーで
上映する予定だったけど、もちろん若松監督はいないんだけど、
出演された俳優の方々がお話を聞けて、
映画が観れるということで、
あ!今日なら行けると、
向かった、、が 途中twitterで、トークショー込みの回は
完売したとわかる、、。が
すでに 物凄い久しぶりに世田谷線で揺られていたし、
下高井戸シネマにつき、、夜の回みるか、、と
チケットを買う。そしたら モギリのお姉さんが、
「18時すぎくらいにこられますと、劇場内には入れませんが、
ロビーで、トークショーの話は聴けますよ。
と言われる。
で、数時間あいて、、再び世田谷線に乗り
松陰神社前で降りる。
松陰神社前、、。
この街は 僕が二十歳のとき、、勝手に単身上京して
居候してた初台の
足立くんの家を出て、初めて 一人暮らしをした街なんだ。
ボロい 風呂なしアパート M荘に。
あれから 何回かはきたとおもうけど、、でも
こうしてジックリ歩くのは ひょっとしたら
十五何年ぶりくらい、、かもしれない。
通りの形などは 変わってないのだけど、とにかく
お店が、、通っていた定食屋とか、、軒並みないし、、
愛想悪いのけど美味かった惣菜屋もない。
ここに公衆電話があって、、
ここで よく長電話してたのだけど、
ここで財布を落として
ベラベラ話してて、、なんか 変な小走りのしかたの女の人
が横切ったなーとおもって ハッとおもったら財布が
なくて、、お金は 数千円だったとおもうけど
その中に 尾崎豊の一番最後のコンサートの
チケットの半券を記念にもっていたやつ、、あれをとられたとお
もうとムカついた。
あとこのころ、、今と違いしょっちゅう風邪をこじらし、
40度くらい熱がすぐでてたけど、、
フラフラで死ぬわけにはいかないと
八百屋で 人参とか玉ねぎとか 肉屋で肉までかって
ビーフシチューを40度で作ったこともあるし、、
アパートの 水洗のトイレのタンクが壊れてて
水があふれて、、床がビショビショになると
下の階のババーの部屋に漏れ ババーがすごく怒ってきて
そしたら 不動産屋の
ジジーが 俺に謝るどころか、ものすごい剣幕で怒ってきて、、
でも わからないから こういうときはこっちが悪く言われる
のかとおもって 謝って、
今だったら、ふざけんなと 何処かに訴えるけど、、。
まあ そのジジーが とんでもなく、、礼金とらない代わりに
ここを出ていかなくてはいけなくなったら
即でるよーにという契約を あたかも、善の気持ちでサービスしてるんだ
っていうムードをだして、俺も 若くなんもしらないから
足元みられてたんやろね。俺の兄弟の写真だよとか見せてきて、、
俺もこの人 良いじいさんとおもって決めたんだけど、
契約したとたん全然違う人になったもん。
それで、で、いよいよ出ろって二年後くらい
に言われて、勿論お金一銭ももらえなかったけど、、
ここの不動産屋では二度と 部屋借りないとおもって
ジジーがなんか 物件すすめてきたけど 断って
最後 挨拶したら 俺のこと、ジジー無視したからね〜
。で、その時の引越しを 実家の工務店のトラック運転して
手伝ってくれたのが 当時音楽やってた竹井くんって人でね。
凄い嬉しかった。 最近フェイスブックでデザイン会社つくって
社長やってるって知ったんやけどね。竹井くんサンキュ”
で 学校でもなく就職でもなく、、いきなり
出てきた、僕の東京生活の始まりは、そんな、
さんざんなジジーと出会いからだったけど、でも、、
それくらいで、
それから僕は この20年くらい
、、凄い 騙されたとか、、ないんやけどね。
ケガもない インドで、A型肝炎
なったくらいで、、ほかなんもない。
それも すごいよね。<笑 感謝してる何かに。
でね その家の前まで行きました。
たてかわったの知ってるけど、、それからも 18年くらい
たってるわけだから 大分ふるくなってたけど、
骨組みは同じでね。↑
この形のまま 昔はボロいアパートだったの、、でこの二階の窓の
ところが僕の部屋でね、。
なんか 見てると やっぱりちょっと、
グッときてしまったわ。
この下にバイクおいてたな とか、、
それで 246通って六本木バレンタインまで
働きにいってたなとか。
で、友達もろくにいなかったけど、、今みたいに
携帯やパソコンもないでしょう。
でも
なんか浮かれてたんよね 東京や〜とか。
だから 切り抜けれたのかもね。
で 俺 誰にも頼まれてないのに、
こっからはじまったもんねー 何も怖くないわ
っておもえたし また<笑
時間がきたので、
下高井戸に戻り映画館にいきました。
そしたら 井浦新さんって 主演の人とか居て、、タバコ吸ってて
あ!とおもったり、
でトークショーが始まり。
ロビーで聞いてたんだけど、それを通して
若松監督が どんな映画を愛し、ロックさ純粋さを
もってた人か理解ができた。
井浦新さんは 悲しいけど、受け止めて
ここはプロとしてこらえて 進まなければという
感じがしたけど、準主役の真島真太郎さんって方は、、
若く よほど、若松監督に感化をうけて、
こんなカッコイイ人今まで観たことがない とおもって
必死でついていったのに、、いきなり 亡くなられて
僕はこれから どうやっていけばいいんですか?という
感じの取り残されたような気持ちが 端々につたわってきた。
その真島さんの言葉でよかったのが
「僕は 若松監督に よく新宿とかでバッタリあってたんですけど、
現場では 鬼のようにつめる監督が、、やさしい表情で
「真島くんに大事なのは 心なんだよ、、
それをまとってる 皮膚や顔
や体は、、本当はそれほど、重要じゃなくて、観客は皆君の心を観て
その心の動きに触発されていくんだよ だから そこを
一番大事にしなさい」と言われたという
その言葉が 僕も、、理解できるというか、
すごい好きだった。素敵な人だったんだな〜とおもう。
で、トークショーは終わり、
入れ替わったら まばらなお客さんの夜の部で
さっき声だけ聞いてた真島さんとか、、こんな人だったんだ。
とおもう。三島由紀夫、、が自決するまでの話。
正直三島由紀夫さんの小説は、金閣寺くらいしか読んだことがなく、、
しかもインドの列車の中で、
すごいおもしろかったけど。
でもなんで あんな形で自殺したんだろーとは
おもってた。
僕の印象では この人は心の中が帰る場所がなかったんだなー
とおもった。
帰る記憶の場所というか。
で この一緒に自決した森田さんという青年も
同じような心でいたんじゃないかな。
理想としてる国のかたちと違うから
、それを訴えるため!に ということを言いながらも、
帰れなくて、さまよっては、ちょっとしたことで傷ついて
生きてきたんじゃないかな。
吉本隆明さんが 三島由紀夫は もう最初から
潜在的に、
死にたくて死にたくてしょうがなかったんじゃないか?
だから、それを紛らわすために
一生懸命勉強したり 小説を書いたり
体を鍛えたりしてたんじゃないか って。
なんでも まだ赤ちゃんのときに、姑が母親から
三島由紀夫を奪って、ずっと 育てたんだって でお乳を
やるときだけ 母親のところに行ってた
そんな育てからマトモな子供ができるわけがないって
、吉本さん、書いてたな。
それ、、ある意味 軽く僕の育てられ方
に似てるんですけどね。<笑
で いきなり 四歳のとき、、婆さんは田舎かえったし、、
、、でも 三島さんはカシコすぎて、
突き詰めすぎたんですね。
いや 理由は色々他もあったとおもうけど、そういうのをおもった。
トークショーでも 言ってたけど、
シーンは ほとんど その時の時代背景でつくられたセット
の中でやったけど、ただ一つ
自決した市ヶ谷の自衛隊 駐屯地 へ向かう車は、
その時のメンバーが乗って向かった 同じ道を通って撮影された
と言ってたけど、、たしかに今の コンビニとか
うつってるんだけど、、それが何か
グッとくるものがあった。
向かってる方向は はっきり言って なにそれ?なんで?
っておもう方向だけど、
でも、ここまで 真っ直ぐに何もかも捨てて
生ききろうとした無名の青年たちが
いたんだな とおもった。
そう考えると、、特攻隊にも 通じてきて、、
今も世界では テロなんかがおこってて、
でも そのテロを起こしてる青年たちも こんなんじゃないかな?
本当に悪いのはそれを操って
汚い金を手にしてる
親父たちだろうね。
じゃあ その親父達は なぜそこまでして、、
それは、、恐れなんじゃないかな。
漠然とした。
時がたっていく。とか。
そこを 裕福さで埋めたい。
でも 埋めきれないとおもうけど。
、
で、映画は 終わっていって、、でね
最後 キャストとか流れるころに、、なんとも言えない
言葉に出来ない気持ちみたいなのが
バーって胸にはいってきたんですよ。
何かが、、映画であんな気持ちは初めて、、、
帰り道も なんか 大声で泣きたいような、、気分で、
で、、でも、
そのあと、、すごく またこっからやってこう”!
って気持ち
になった
んですよね。松陰神社もいったからかもだけど<笑
またゼロから出来るって。
んで それは
今もある。
あの映像の光の中に お話とは別の若松監督の
本当の心が散りばめられてて
永遠に観客を照らしつづける気がした。
ありがとうございます若松監督。
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